子もちシシャモは当然メス。では「オスはいったいどうなっているのだろうか?」こんな疑問を抱く人も多いはず。嘗てはオスの干物もよく売られていたものだが、最近では殆どお目にかからないようだ。 実は、現在私たちが食べているシシャモのほとんどは、輸入品なのだ。市場に出まわっているシシャモのうち、国産品はわずか2パーセント程度にすぎない。国産のシシャモは釧路川など北海道の東南部の川が産地で、海で育ったシシャモが産卵のために川を上ってくるのを漁獲する。 ところが近年、サケ(鮭)同様に、川の汚染や乱獲のために、いまでは漁獲量が激減してしまった。 そこで需要の大部分をノルウェーなど北欧からの輸入品でカバーしている。北欧等の輸出国側では、圧倒的に人気の高い子もちシシャモだけを出荷し、 人気のないオスは飼料に使い、食用にはしないため、現在日本ではオスは殆ど見かけないのである。 しかし国産品の産地である釧路近辺に行けば、今でもオスの干物も市場に出ている。国産の子もちシシャモに比べて値段も安く、味も中々。釧路へ行ったらオスのシシャモを食べてみるのもいいかもしれない。
イワシの頭も信心から! 「イワシの頭も信心から」とは、昔からよく聞くことば。イワシの頭のようなつまらないものでも信仰の対象にしている人には、尊い神仏と同じように霊験あらたかに思われるということ。 昔からイワシは、卑しい魚、つまらないものの代表みたいに言われてきた。(今では、漁獲量も減り、日によっては高級魚の仲間入りをする日もしばしばあるが・・・。) そんなイワシも実は、魔よけには一番ポピュラーな神さまだったのだ。 節分といえば「豆まき」を連想するが、主に西日本でイワシを食べる習慣があった。これは、邪気を払うためにイワシの頭を門口にさした習慣に由来しているらしい。柊の針で鬼の眼を刺し、イワシを焼く激しい煙と臭いで邪気(鬼)を追い払うと伝えられている。今でも疫除けや、魔よけにイワシを戸口にさす風習が残っている地域もあるのだ。 季節の節目にイワシを食べ、豆を食べるという日本に残る伝統行事は、先人の健やかに暮らすためのおしえだったというわけだ。
徳川家康が江戸に幕府を開いて以来400年、江戸(東京)は日本の中心都市となった。 ところが、江戸料理の実態は、一般にあまりよく知られていない。現在の東京には「江戸料理」を売りにしている店はほとんどないのが現状。会席料理を中心とした高級な料理屋は、どこも関西風料理が中心なのだ。 こうなった理由は、関東大震災で東京の多くの料理屋や料理人がダメージを受けたため、名店として知られる日本料理店「なだ万」等のように、関西の料理店が東京に進出してきたからだと言われている。 そこで、手間隙かけた細工的な 江戸料理がだんだんと姿を消し、代わりに、シンプルで素材の味を生かした関西料理が広まったからだ。関西料理は時代の好みにも合っていたため、関東の地にも根付き、江戸料理と融合して発達したといえる。今や幻となりつつある本来の江戸料理とはどんなものなのか?江戸料理というのは非常に手の込んだもので、例えば魚の身をすり身にした後でいろいろ手を加えて調理をする。
江戸料理で最も有名な店はなんといっても「八百善」。八百善は文化文政の頃(19世紀初め頃)に江戸で繁盛した料理屋です。料理屋を開業する以前の八百善は、明暦の大火(1657)後に、新鳥越2丁目(山谷)で八百屋を始め、創業者、八百屋の善四郎の名から八百善とよばれた。その後文化年間(1804ー18)に仕出し料理屋を始め、文政(1818ー30)の初め頃から座敷で客をとる料理屋に発展したようだ。 当時一流の文人墨客と交流があり、その著書『料理通』には、蜀山人、亀田鵬斎が序文、谷文晁、葛飾北斎、酒井垉一などが挿画を寄せている。八百善はペリーへの饗応料理も担当したことでも名を残している。八百善に関する逸話としては、「客が二、三人で極上の茶と、うまい香物のお茶漬けを注文したら、お茶漬けは結構な味ではあったが、その勘定書はなんと1両2分であった」とか(現在の貨幣価値だと約15万円)八百善は材料を吟味し、大変な手間暇をかけていた。 例えばハリハリ漬の場合、細根大根1把の中から2、3本しか使わず、辛みを出さないために水でなく、味醂で洗って漬けたので美味であったといわれる。 まさに「超こだわりの高級店」だったのだ。 現在は新宿高島屋、両国の江戸東京博物館内のレストランで名店「八百善」の味と雰囲気を堪能できる。
バッテラはポルトガル語に由来する言葉です。鯖寿司は、しめさばをすし飯にのせ、棒状にしてから竹の皮に包みますが、その形は小舟に似ています。ポルトガル語では小舟を意味する語は「Bateira バッテイラ」で、ここから鯖寿司がバッテラと呼ばれるようになったと考えられます。 もともとは※コノシロの押し寿司をバッテラと呼んでいたのですが、しだいにコノシロが不漁になり次第に鯖寿司にとって代わられたようです。確かにコノシロの押し寿司の方が小舟に見えますね。
因みに… ご存知のように、カステラもポルトガル語に由来します。 日本の和菓子だと思われがちですがその意味は「(スペインの)カスティーリャ地方のパン」。 安土桃山時代に日本に伝来し、当時はカステイラと呼ばれ、漢字でも加須底羅などと書かれていました。 その他にも伝統的な純日本料理と認識されている料理の中にも西洋から伝わったとされるものは数多くあるようです。
※コノシロはニシン目ニシン科コノシロ亜科の魚で、分類学的にはニシンやイワシの仲間です。姿形のよく似た魚にサッパがありますが、サッパにはコノシロに見られる、えらぶたの後ろにある黒斑がないことで区別できます。この魚は成長にあわせて呼び方が変わるいわゆる出世魚で、体長4〜5センチ程度のものを「シンコ」(関東)、中型のものを「コハダ」(関東)、「ツナシ」(関西・九州)、体長15センチ以上のものを「コノシロ」と呼んでいるようです。
「もりそばとざるそばの違いは?」と自称「そば通に」尋ねると、「海苔が乗っているかいないかだよ!」との解説。 それで100円も200円も違うのか?…。 そばといえば安土桃山時代、大阪城の築城当時の工事用の砂置き場(砂場)付近で流行した当時のファーストフードであったようだ。やがて大阪の築城が終わり、大工や左官職人などが江戸に移り、彼らと伴に江戸に「そばや」が移ったとも言われ、実は大阪がルーツという説が多い。その証拠に現在東京に「砂場」と名のつく老舗が存在する。 元々そばと云えば「もりそば」のことだった、江戸時代、元禄の頃からつゆを予めそばの上にかけてから食べる「ぶっかけそば」が流行り、それと区別する為に従来のそばを「もりそば」と呼ぶようになった。 明治以降江戸(東京)が日本の政治経済の完全な中心となり、鉄道などの交通機関の発達に伴い関西や日本中から人が集まり、江戸の“甘ジョッパイ”「もりそば」が改良され、特に出汁に「みりん」と「かつお出汁」をより利かせた柔らかい味の「ざるそば」が誕生したと言われる。海苔は店員が間違えない為に乗せている場合が多い。
◎もりそばとざるそばの主な違い (1)使っているそば粉が違う (2)薬味の量が違う (3)出汁が違う (4)海苔のありなし
★勿論、全ての「そばや」に共通しているものでは有りません。(あくまでも傾向です)
●知ってますか・・・・ そばが栄養学にも健康にもすぐれた食品であるのは周知のとおり。 そばを茹でたゆで汁(そば湯)がとても栄養に富んでいることは、あまり知られていないようだ。老舗の蕎麦屋では必ず付いてくるが、そばに含まれる、ビタミン類や、ルチンは水溶性のため、茹でている間にどんどん茹で湯の中に溶け出してしまう。 また、そばの旨み成分でもあるたんぱく質も半分は水溶性のためこれも溶け出してしまうのである。 そばを食べた後のそばつゆをそば湯でのばし、そばを余すことなく味わうべきなのだ。 自称「そば通」という方は絶対知っておくべき知識ですよ!
古くから「肴」語源は、主に酒菜を意味する。酒魚または酒楽という場合もある。 要するに酒に供える食べ物の総称であったが、その中で酒を美味しく飲むのに相性がよかったのが動物性の食材とされてきた。 魚や鳥獣類の料理を真菜(まな)、植物性の酒菜を蔬菜(そさい)粗略な食品とよび、真菜を料理したり、神前に供えるために用いた板を真菜板と呼ぶようになったのもこのことからだ。 料理した食品は肉の上に烹るという意味のメ、ナをつけてサカナと訓む肴の字が生まれたのだ。 ところが、平安時代には宴席の接待様式も変化し、酒の席を賑やかにするため歌舞音曲や武芸までも座興として披露する風習が生まれた。この座興をもまたサカナと呼ばれ、食品の肴と区別して肴舞(さかなまい)と呼ぶのが正確な言葉といわれている。
ワインのボトルは主に「ボルドー型」と「ブルゴーニュ型」に大別されること知られているが、フランスではワインの好みを訪ねるとき「ヘップバンが好きかモンローが好きか」という人がいる。 ヘップバンはボルドー、モンローはブルゴーニュのことを指す。ボルドーの瓶は怒り肩で、やせたヘップバンに似ている。 ブルゴーニュは、なで肩で妖艶なモンローにそっくりということらしい、いかにもワインの本場、フランスらしいウィットな会話といえる。