Tokyo Cuisine SAUTOIR HOME
プライムソトワール(味へのこだわり) 料理・洋菓子のレシピ スペシャルインタビュー ソトワールコンシェル 出版図書紹介 フランス料理:用語集 食の雑学事典
パスタの始まりは、「東方見聞録」で知られる冒険家、マルコ・ポーロが中国から麺を持ち帰ったのがスパゲッティのはじまりという説や「いやいやイタリアにはそれ以前からマカロニがあった」とか、イタリアでのパスタの起源に関しては諸説あるが、とにかく、現代のようにソースとからめて食べるパスタ料理がイタリアで普及しはじめたのは、17世紀といわれている。
18世紀初めまでは、スパゲッティは主に民衆の食物で、ただチーズをかけて手で食べるものであったらしい。
それが18世紀後半、庶民の風俗を深く愛したナポリ国王フェルディナンド4世が、宮廷内で毎日パスタを食べることを命じ、上品に食べるために絡みやすいフォークがその時代に考案されたと伝えられる。
パスタは大きく分けると2種類に分類され、スパゲッティに代表される麺状のロングパスタと、マカロニに代表される小型のショートパスタがある。
イタリアには地方独特のものも含め500種類以上ものパスタがあるとされ、プロの料理人でも全て知っている人はあまりいないはず。 日本で初めてパスタが作られたのは明治16年頃、フランス人宣教師マリク・マリ・ド・ロ神父が、長崎県長崎市外海町に煉瓦造・平屋建のマカロニ工場を建設し、製造したのが最初とされている。
昭和初期から、国内での生産が開始されているが、当時はまだ珍しい食材で、ホテルや高級レストランでしか食べることができない料理であった。一般に食べられるようになったのは、自動式パスタ製造機が輸入されるようになった昭和30年代以降で、昭和60年代にはデュラム・セモリナ100%の国産パスタが市販にも出回るようになった。
ここ数年は都内のイタリア料理専門店では手打ちの生パスタをメニューに入れるレストランも多く、乾麺とは違った「モッチリ」とした食感が、多くのイタリア料理ファンを魅了している。今やパスタは、私たち日本人の家庭料理としても不可欠な食材となっている。
因みにイタリアでは、1967年に施行されたパスタ法律(580条)によって、乾燥パスタはデュラムセモリナ粉と水で作ることをパスタ生産者に義務付けている。
TOP
ヨーグルトは、一般的に身体に良い食べ物として、今日の日本ではポピュラーな乳製品。
ヨーグルトはとても古い歴史を持っており、紀元前3000年頃、現在のブルガリア周辺から誕生したとされている。
19世紀末、ロシアの医学者イリヤ・メチニコフがブルガリアを旅行した際、特定の地域に高齢者が多いことに注目し、普段の食事にそのヒントがあると気づき、伝統食であるヨーグルトが長寿の秘訣と紹介したことから、ヨーロッパを中心に世界中に広まったとされている。
発酵乳であるヨーグルトは牛乳に比べ保存性が高く、動物性タンパク質やビタミン、ミネラルを豊富に含み、古くから貴重な食料として利用されてきたのである。
基本的にヨーグルトは温めたミルクに乳酸菌を入れて作る。ブルガリアにはヨーグルトを作るための乳酸菌が、自然の中に豊富に存在していたため、ヨーグルト作りに適していた風土であったようだ。
夏場に作ったヨーグルトを一冬保存して食べていたとか。ブルガリアの家庭では自家製ヨーグルトをデザートだけでなく、スープやシチューのような普段の料理にも使い、一年におよそ平均30kgのヨーグルトを食べている。これは日本人が食べる量のなんと4〜5倍だ。
地方やヨーグルトの歴史が違うと、使われるヨーグルトに含まれる菌の種類が違うため、ヨーグルトの出来上がりも違う。
水牛乳は牛乳に比べて乳脂肪の割合が多いのでより濃厚なヨーグルトになる。
モンゴルなどの遊牧民がお客を招き入れるときに馬乳酒を差し出す。馬乳酒はその名の通り、馬乳を発酵させて作った飲み物。ヨーグルトのような味で白くにごった液体で、モンゴルでは毎日の食卓に欠かせないものとなっている。
また数年前に日本で大ブームとなった、カスピ海ヨーグルトはクレモリス菌という乳酸菌の1種が、トロトロとしているのに粘り気のあるヨーグルトを作る元になっている。
TOP
ブドウと並び、オリーブは人類によって最初に栽培された植物の一つであると言われている。
オリーブ栽培はペルシャ中部、メソポタミアからエジプト、フェニキア、さらにギリシャへと広がり、大昔、地中海東部の人々の食料はオリーブとブドウであったとも言われている。
オリーブは食料やランプの油、そして鎮痛作用のある軟膏としても重宝がられていた為、宗教的な意味を持つ神聖な物としても重宝されてきたらしい。 元々オイルの語源はオリーブを意味するアラビア語。その昔はオイル=オリーブオイルだったのだ。
オリーブオイルの特性としては、ほとんどの植物油は種子を絞って作るが、オリーブオイルは果肉を絞って作るため、悪玉コレステロールを退治する、オレイン酸をはじめ果肉に含まれる栄養素をそのまま摂取できる。
お肌にもいいビタミンEも豊富に含まれ、化粧品にも使われている。
因みに世界で生産されているオリーブオイルのうち、最高品質であるバージンオリーブオイルはおよそ10%とされ、そのなかでも熱処理などを一切施していないものを、エクストラバージンオイルと呼んでいる。
嘗てはオリーブオイルを鑑定する方法はテイスティングのみであったが、非常に主観的であったため、近代ではオリーブオイルの酸度を化学的に検査する方法が開発されている。 店頭販売で最高級品は、500mlで五千円〜七千円の商品もある。
TOP
酢はフランス語でビネガーvinaigreと呼ばれているのは日本人にも知られているが、これはvin(ワイン)とaigre(酸っぱい)を組み合わせて作られた言葉といわれている。 その意味の通り酒との関連性は深く、人類が醸造を行うようになるのとほぼ同時代に酢も作られたと考えられている。
古代ギリシャの哲学者ヒポクラテス(紀元前4〜5世紀)は、呼吸器病やケガの治療など様々な医療に酢を用いたといわれ、古代エジプトの女王、あのクレオパトラも美貌を保つ為に酢を愛用したといわれている。
お酢が日本へ伝わったのは5世紀頃、酒づくりの技術とともに中国から渡ったとされ、強力な殺菌効果ががあることは古くから知られている。 酢は何からできているのか?意外と知られていないがそもそも酢は酒からできているの。
日常、私たちの周りになは「酢酸菌」が無数にいて、この酢酸菌が果物や穀類から出来ている酒に取り付いて、アルコール分を食いつくしお酢に変えるというわけだ。そのためフランスやイタリアなどワインの産地ではワインビネガー、ドイツやイギリスなどではビールのもとであるモルトからできるモルトビネガー、そして日本では米が原料の日本酒から米酢ができる。
古くから「体に良い」といわれている酢。最近ではその効果も科学的に実証され、特に糖分と酢を一緒に摂取すると、素早く吸収され疲労回復に効果的。また調理の際には、酢を使うことで少量の塩で「旨み」を感じるため塩分を減らすことができる他、酢の殺菌効果を使って酢洗いや酢漬け等の調理法も昔から知られている。
昨今の健康ブームから、様々な酢が その効果・効能から次第に「手軽に毎日取りたい!」という声が高まり、登場したのが「飲む酢」。リンゴ酢や黒酢、もろみ酢をはじめ、ラズベリーやマンゴーのお酢など季節に合わせた食材を使った、おしゃれなフルーツビネガーやデザートビネガーまでその種類は多岐に渡っている。
TOP
蜂蜜(はちみつ)は、蜜蜂が花から集めた蜜を主原料に作り出し、巣の中に貯蔵される天然の甘味料である。
蜂蜜と人類の関わりは古く、スペインのアラニア洞窟で発見された約1万年前の壁画に蜂の巣から蜜を取る女性の姿が描かれている。メソポタミア文明の象形文字にも蜂蜜に関することがらが記載され、古代エジプトの壁画に養蜂の様子がえがかれている。
歴史的事例から世界最古の甘味料ともいわれている。花の数だけ種類がある蜂蜜。最近ではお肌に良いビタミンやミネラルが豊富に含まれているということで、女性にも人気の甘味料になっている。そのためレストランや洋菓子店でも料理やデセール、生菓子、焼き菓子等にも頻繁に使用されている。
もっとも日常的に親しまれる利用法は、パンやホットケーキに塗って食べるほか、リコッタなどの軽いチーズ、あるいはヨーグルトなどの乳製品に添えることがある。またコーヒーや紅茶等の飲み物に砂糖の替わりに甘味料として用いる。
蜂蜜の主成分である果糖は低温では甘味を感じやすいが、高温では感じにくくなるので、暖かい飲み物に蜂蜜を使う場合は、量が多くなりがちなので注意が必要である。紅茶にハチミツを入れると、黒く変色してしまう。これは、紅茶に含まれるタンニンと、ハチミツに含まれる鉄分が結合し、タンニン鉄が生成されるためである。
砂糖との根本的な違いは、その甘味成分ある。砂糖の甘味は「ショ糖」だが、蜂蜜は「ショ糖」をさらに分解した、ブドウ糖と果糖からできている。それは蜜蜂の唾液に含まれている消化酵素が、花の蜜である「ショ糖」を消化分解するためなのだ。
そのため人の胃の中で消化作業の必要がなく、吸収が早く、身体に優しいというわけだ。マラソンランナーが用意しているオリジナルドリンクには蜂蜜が入ったものが多いのもこのため。しかもカロリーは砂糖の70%程度、花粉に含まれるビタミン類やプロポリス、ミネラル類、アミノ酸などの様々な栄養素が含まれ、蜂蜜はとてもヘルシーでバランスの良い栄養食品といわれている。
TOP
かつお節の歴史は古く、日本最古の書物、古事記(712年)。
この中に堅魚(カタウオ)という名前が登場するが、これが鰹と呼ばれるようになったとされる。
また養老律令(718年)に堅魚、堅魚煎汁(カタウオイロリ)というものがあり、これが今日のかつお節の原形。
戦国時代にはかつお節を戦陣に携帯したことが当時の文献に記されており、「是を噛ば性気を助け気分を増し、飢を凌ぐ」とあり、かつお節が兵糧として使われていたことが分かる。これは、かつお節がその語感から「勝男武士」に通じることもあり、縁起のよいものとされてきたのだ。 お吸い物や煮物等、日本料理には欠かせないかつお節は、実は世界で一番硬い食べ物とされている。 硬さの秘密は表面を覆っている茶色い粉。その正体はなんとカビ。
勿論のこと優良なカビであるが、このカビが繁殖時にかなりの水分を必要とし、鰹の中の水分を吸い取るため、あんなに硬いかつお節ができるというわけだ。
こうしてできたかつお節は旨みも凝縮され、長期の保存も可能となる。 そしてカビはタンパク質を分解し、アミノ酸とイノシン酸という旨み成分も作り出し脂肪酸を分解するため、出汁をとっても油が浮かず、透明感のある澄んだ出汁がとれるというわけだ。
もっとも手間暇がかかる「本枯節(ほんがれぶし)」のできるまで「生切り」「籠立て」「煮熟」「骨抜き」「焙乾」「削り」「カビ付け」という工程を経て本枯節が出来上がるまで、なんと半年以上の月日が必要といわれている。
TOP
ラーメンは今や日本の国民食ともよべる位置づけを確立し、日本独自の発展を遂げた麺類といえる。
歴史的には日本で最初にラーメンを食べたのは徳川光圀(水戸黄門)だという説がある。これは明から亡命してきた儒学者の朱舜水が水戸藩に招かれた際に中国の汁麺を献上したとの記録があり、これがラーメンであったとするものである。
ラーメンの普及には大きく二つの流れがあったとされる。第一には、中国からの移住者の営む横浜等の中国料理店や戦後の大陸からの引揚者を中心に営まれた日本風の中華料理屋におけるメニューとして定着したとされる流れと、夜間に屋台で販売したものの流れを継ぐラーメン専門店である。
近年は減少しつつあるが、屋台は古くは江戸時代からの夜鳴き蕎麦屋の風習にのっとり、リヤカーの後ろに調理器具を積み、街中でチャルメラと呼ばれる一種の笛を鳴らしてラーメンを販売した。
傾向としては屋台ラーメン店はスープの採り方等に各店独自の工夫を凝らすことで、様々な個性出し、独自の進化発達を遂げ現在のラーメンブームのベースにもなったと考えられる。
1958年(昭和33年)に日清チキンラーメンが発売され爆発的なヒットを起こし、それ以後日本人に「ラーメン」という食文化が本格的に定着していったと考えてよいだろう。日本各地の御当地ラーメンや最近では首都圏を中心に魚介のWスープが人気となったり、ラーメン文化は今日も進化を続けている。
TOP
海苔漁の終わる4月下旬からは木更津・船橋等の東京湾は浅蜊漁の季節。なんと「アサリ」の語源は砂浜で貝を「漁(あさ)る」ように獲ったことからその名前がついたとされている。春の彼岸過ぎから5月にかけて、水が温むと旨みを身に蓄え美味しくなり、大潮の頃は絶好の潮干狩りシーズンになるのだ。
かつては全国どこの内湾にもザクザクと獲れた浅蜊。現在、日本産は激減してしまい90%以上が輸入品。
浅蜊に含まれるビタミンBはレバー並、カルシウムや鉄分も多く含み、たんぱく質はたまごと同じといわれるほど栄養価が高く、古くから浅蜊は日本人の食生活と健康を支えてきたポピュラーな貝。
千葉県の木更津海岸では天然の地浅蜊漁が盛んで、今では江戸前のブランド浅蜊としてのその地位を確立している。
そして江戸前浅蜊といえばまずは深川飯が思い浮かぶ。隅田川の河口あたりの深川は浅蜊がよく取れ、江戸時代末期に江戸深川の漁師が食べ始めたのが最初といわれている。 漁獲が豊富であったため単価が安く、調理が簡単なため早く用意が出来、さらに素早くかき込むことができることが好まれたようである。
ただ、当時は時間がかからない方法として浅蜊の味噌汁を白飯にぶっかけた方法が取られていたと伝えられる。
江戸時代より浅蜊は数々の食文化を育んできたが、 現在、江戸前浅蜊を存分に楽しむなら、東京 亀戸「升本」の「亀戸大根あさり鍋」がお薦めだ。
古くから庶民に親しまれた江戸野菜の亀戸大根と新鮮なあさりを使い、亀戸大根の独特の辛味と浅蜊は絶妙にマッチ。
江戸前のあさり鍋は当時のままの伝統の味を守り続けており、現在も人気の逸品となっている。
TOP
■シシャモのオスは何処へ?

子もちシシャモは当然メス。では「オスはいったいどうなっているのだろうか?」こんな疑問を抱く人も多いはず。嘗てはオスの干物もよく売られていたものだが、最近では殆どお目にかからないようだ。
実は、現在私たちが食べているシシャモのほとんどは、輸入品なのだ。市場に出まわっているシシャモのうち、国産品はわずか2パーセント程度にすぎない。国産のシシャモは釧路川など北海道の東南部の川が産地で、海で育ったシシャモが産卵のために川を上ってくるのを漁獲する。
ところが近年、サケ(鮭)同様に、川の汚染や乱獲のために、いまでは漁獲量が激減してしまった。 そこで需要の大部分をノルウェーなど北欧からの輸入品でカバーしている。北欧等の輸出国側では、圧倒的に人気の高い子もちシシャモだけを出荷し、 人気のないオスは飼料に使い、食用にはしないため、現在日本ではオスは殆ど見かけないのである。
しかし国産品の産地である釧路近辺に行けば、今でもオスの干物も市場に出ている。国産の子もちシシャモに比べて値段も安く、味も中々。釧路へ行ったらオスのシシャモを食べてみるのもいいかもしれない。

イワシの頭も信心から!
「イワシの頭も信心から」とは、昔からよく聞くことば。イワシの頭のようなつまらないものでも信仰の対象にしている人には、尊い神仏と同じように霊験あらたかに思われるということ。
昔からイワシは、卑しい魚、つまらないものの代表みたいに言われてきた。(今では、漁獲量も減り、日によっては高級魚の仲間入りをする日もしばしばあるが・・・。)
そんなイワシも実は、魔よけには一番ポピュラーな神さまだったのだ。
節分といえば「豆まき」を連想するが、主に西日本でイワシを食べる習慣があった。これは、邪気を払うためにイワシの頭を門口にさした習慣に由来しているらしい。柊の針で鬼の眼を刺し、イワシを焼く激しい煙と臭いで邪気(鬼)を追い払うと伝えられている。今でも疫除けや、魔よけにイワシを戸口にさす風習が残っている地域もあるのだ。
季節の節目にイワシを食べ、豆を食べるという日本に残る伝統行事は、先人の健やかに暮らすためのおしえだったというわけだ。

TOP
■「ちゃんこ」と「ちゃんこ鍋」
「ちゃんこ」といえば当然「鍋」。と一般的には思われるが「ちゃんこ」とは本来、相撲力士の食事の意味。
鍋だけがちゃんこと思われがちだがそれは誤りで、力士の食事は相撲を行うための体格を身に着けるために、鍋料理を食べることが多く、それが広く知れ渡ったのがちゃんこ鍋なのだ。
相撲部屋でのちゃんこの調理は、ちゃんこ番の力士が「ちゃんこ長」を務め、主に幕下以下の力士が自ら調理を行うのが通例。
長年ちゃんこ番をしている力士がちゃんこ長を務めるという伝統から「料理がうまい力士は出世しない」と言われる。
しかし力士を廃業した後、そこで身に着けた調理法を活かし、ちゃんこ料理屋を開業するケースも多い。このため両国界隈の他、場所の巡業がある、名古屋、大阪、福岡などにはちゃんこ料理店が多いようだ。
「ちゃんこ」の語源としては、「ちゃん」とは父ちゃん。「こ」は子供を意味していて、つまり「部屋の親方と弟子が一緒に食べる料理」の意味。
長崎に伝わった板金製の中国鍋。鐘鍋の中国式発音“チャンクオ”から、「ちゃんこ」になった。という2つの説があるがどちらの説が正しいとは断定できない。ちゃんこ鍋のベースとなる味付けは、醤油や味噌が料理屋では一般的だが、相撲部屋によってはキムチやカレー、ホワイトソースなどを用いて飽きがこないように工夫され、数多のバリエーションを作り出しており、その相撲部屋独特の作り方が評判の部屋もある。
また白星を連想させることから、具として鳥肉団子を入れることが一般的になっている。古くは「手をつく」=「負ける」という連想から、縁起を担ぐため牛や豚などの四足動物の肉を使うことを避けた時代もあったようだが、現在では使われることも珍しくないらしい。
TOP
■にぎり寿司の誕生はいつ頃?
鮨、鮓という漢字は2500年以上も前から中国にあった漢字。基本的にはどちらも当て字といわれるが、 「旨」は熟成する、「乍」は薄くするの意味で、自然発酵させて食べていた魚が、東南アジアの山奥から中国に渡り、 それが日本に伝わったとされているが、中国には現在、 それに近い食べ物はないらしい。
『寿司』とは、お祝い事(寿)として、司る(つかさどる)の意味で、 縁起が良い食べ物と伝えられている。
日本の寿司の歴史も古代に遡る。なれずし(馴れずし)は奈良時代の書物に近江国から宮中への献上品として記してあり、 琵琶湖のニゴロ鮒と江州米を漬け込んで作ったものらしい。 これは、 現在の『フナ寿司』のような物で、その他にも、すしの原型は、 関西中心のお話が多く、日本の寿司のルーツは関西であるといわれている。『サバの棒寿司』『押し寿司』『箱寿司』は、 関西発祥であるのは有名な話。握り寿司の誕生は江戸時代(文化・文政、1804年から1830年)。
当時、江戸の町には、屋台を中心とする外食産業が軒を列ね、そんな中で江戸前の寿司が誕生していった。
江戸前、すなわち東京湾でとれる魚介・のりを使うことから「江戸前寿司」とも呼ばれたとされる。
誰が、いつとなると諸説があるが、赤酢を舎利に使った華屋与兵衛が江戸両国で寿司店を開業したのが始まりというのが有力だ。アナゴ、エビ、イカ等を味付けし、煮て、握った舎利の上に乗せて出したものがはじまり。そのおいしさ、その簡便さが当時江戸中の評判になった。現在のような寿司店ができたのは明治以後で、1923年の関東大震災により、被災した東京のすし職人達が関西などに移り、日本全国に拡がっていったらしい。
したがって江戸以外では『握り寿司』は歴史はかなり浅く、 にぎり寿司ついては江戸の郷土料理といってもよい。
知ってますか(1)・・・・・
毎年11月1日をみのりの秋・収穫の秋・米への感謝の日として「全国すしの日」と定められているが、なぜ、11月1日なのだろうか?歌舞伎の義経千本桜の中に『鮓屋の段』と言うのがある。
ここに出てくる鮓屋の弥助「平維盛」が壇ノ浦の戦いで敗れた後、寿司屋に身を寄せていたところ、この店の娘お里と恋仲になり、養子になって鮓屋となる決心をして弥助と改名したのが11月1日。その寿司屋は今も現存し奈良県下市村釣瓶鮨屋 弥助鮨といわれている。
知ってますか(2)・・・・・
寿司に欠かせないのは、何と言ってもお酢。
今から約200年前の江戸の町で大ブームになったにぎり寿司のおかげで、突如お酢は江戸で大変な需要となった。
しかも、尾張の初代中埜又左衛門の作る赤酢は美味しいと大評判になり、大商い!
江戸前寿司には中埜酢(ミツカン)が定番になり、現在、日本を代表するお酢ブランドの地位を確立したとされている。
TOP
■コーヒーブレイク!
コーヒーがエチオピアからアラビア半島へ伝えられたのは10〜11世紀初め、その後、オランダ人の商人がコーヒーをヨーロッパで初めて伝えたのだ。
日本にコーヒーが伝わったのは、17世紀初頭にはオランダ人によって長崎に持ち込まれたとされている。
日本で広くコーヒーが飲まれるようになったのは明治維新の後で、日本で生活する外国人が日本に定着させてきたといえる。
しかし当時、コーヒーはおもに上流階級の人達が飲むもので一般庶民には馴染みの薄い嗜好品。
明治も終りになると、西欧に留学してきた文士、芸術家たちが多く帰国し、日本にもカフェの様に、集まることのできる場所を求めて結成された「パンの会」のメンバーが日本橋小網町の「メイゾン鴻巣」に集まるようになり、本格的なフランス料理と洋酒に、本格的なフランス式の濃い珈琲が楽しむことができた。
そこは「スバル」「三田文学」「新思潮」の同人とその仲間が集まる文士の社交場となった。
その当時、高級西洋料理店プランタンのコーヒーが15銭だったとき、5銭で本格的な珈琲を提供する店パウリスタが開店、本格的なブラジルコーヒーを洒落たお店で安く提供することで、多くの人々にコーヒーに触れるきっかけを作りその後のコーヒーの普及に大きく貢献した。
1930年(昭和5年)には 東京のカフェは7000軒にものぼり、女給と呼ばれる人たちが1万7千人働いていたといわれている。
戦後になると、1960年(昭和35年) コーヒー生豆の輸入が全面自由化になり、国内メーカーがインスタントコーヒーの製造を開始し、完全に日本人の生活に定着したといえる。
現在わが国のコーヒー消費量はアメリカ、ドイツについで世界第3位とされ、日々の生活の中で欠くことが出来ない飲み物になっている。
知ってますか・・・・・
よく職場等で「カフェオレとカフェラテって何が違うのかなあ?」と聞かれたことが ありませんか?
基本的には同じ意味で、「カフェオレ」は、コーヒー・ミルクという意味のフランス語。
作り方は、コーヒとミルクを別々にあたためて、カップに同時に注いで作りフランスでは、広く一般的に飲まれている。
「カフェラテ」は、エスプレッソ・ミルクの意味のイタリア語。作り方は、エスプレッソにスチームドミルクを加えて作る。
TOP
■小さな一粒、大きなパワー   アーモンド!
起源は中国、または西アジアにさかのぼると言われ、ローマ帝国時代に貴重品としてシルクロードを経て地中海、そしてヨーロッパ全域に広がり、その後、修道士と共に大西洋を渡り、メキシコを経て18世紀にスペインの宣教師によってカリフォルニアに伝えられる。
カリフォルニアの気候風土は、アーモンドにとても適していたことから、今では世界の80%を生産する一大産地となっている。
アーモンドは古くから宗教的儀式や祝い事において、幸福の"シンボル"としての役割を果たし、 古代ローマ人は出産を願うおまじないとして新婚夫婦をアーモンドシャワーで祝っていた。
またフランスには、「ガレット・デ・ロワ」という、キリスト教の伝統に基づくお菓子があり、年の初めに幸福を運ぶ楽しくおしゃれなアイテムとして洋菓子ブームの日本でも注目されはじめている。
アーモンドをお菓子やお料理に加えると旨みやこくが増すだけでなく、栄養バランスに優れた一品となる。
アーモンドは様々なビタミン・ミネラルを豊富にバランスよく含み、アーモンドに含まれる脂肪分の約70%はオレイン酸で高血圧や高コレステロールなど、生活習慣病予防や老化防止に効果があると報告されている。
TOP
■チョコレートは「神の食べ物」
チョコレートの発祥の地は中央アメリカ。
当時はカカオの実をペースト状にし、トウモロコシの粉と一緒に水に溶かして飲んでいた。
アステカ文明の時代、チョコレートは大変貴重な物とされ、「神の食べ物」と呼ばれて王族や貴族しか飲めなかったといわれている。その後大航海にヨーロッパに伝わり、滋養強壮の薬として扱われた。そして19世紀には様々な加工技術が進歩して、現在のような食べるチョコレートが誕生したようだ。
チョコレートの語源は、原住民がカカウから作った高価な飲みものを“ショコラトル=chocolatl”といったことから《chocolate》というようになったといわれ、フランス語、スペイン語、英語の読み方の違いもあると考えられる。
ココアの語源は、スペインがアステカを征服したころ、原住民がカカウと呼んでいたことから、ヨーロッパへ伝わるにつれ、カカオ、さらに転化してココアになったという説がある。
そして日本にチョコレートが持ち込まれたのは江戸時代。寛政年間「長崎見聞禄」にに「しょくらとを」の飲み方、味が記されている。
明治32年(1899年)森永商店(森永製菓の前身)がチョコレートの製造を始め、原料チョコレートを輸入し、クリームチョコレートの製造を始めた。その後、大正2年(1913年)不二家洋菓子舗、大正7年(1918年)東京菓子(明治製菓の前身)がチョコレートの生産を始めたのが日本におけるチョコレートの工業生産化のはじまりである。
最近は東京の街角にチョコレート専門店が増え、イートインのカフェで飲むチョコレートを出す店も目立つが、本来はこれがチョコレートの正統派のスタイルで、お馴染みのココアともかなり違っている。
最近は抹茶やゴマ、きな粉、梅、山椒などの、和の素材がチョコレートと組み合わされた「和チョコ」がヨーロッパでも注目を集めている。
日本人の年間のチョコレート消費量は一人当たり約2.2Kg(国際菓子協会調べ)で、スイス、ベルギーはその約5倍といわれ、日本での消費量もこの先増えていくと予想されている。
また、チョコレートに含まれるカカオ・ポリフェノールは動脈硬化の進行を防いだり、花粉症等のアレルギーにも有効とされる報告もあり、ガンの抑制の働き等も各メディアでも紹介されている。
チョコレートは単に美味しいだけではなく、素晴らしい実力を兼ね備えている。
TOP
■おでんと田楽
「おでん」のルーツはなんと「田楽」。「おでん」の「でん」は「お田楽」の「でん」ということなのです。
そもそも「田楽焼」は豆腐に味噌をつけ、焼いて食べたのが始まり。田楽の名前の由来は、平安時代から行なわれていた伝統芸能の「田楽」から取られたというのが通説。
これは、田植えのときに田の神を祀るために、笛や太鼓を鳴らして田の畦で歌い舞った「田舞」が起源とされる。
やがて専門の田楽法師が生まれ、笛やささらなどの楽器を用いた群舞と、高足に乗って玉や刀を使った曲芸を生業にしいました。「高足」というのは、7尺(約2m)くらいの棒の下から1尺(約30cm)くらいの所に貫棒が刺さっていて、そこに両足を乗せて歩く道具のことです。それで串に刺した豆腐が「田楽豆腐」と呼ばれるようになり、串に刺した田楽からおでんという名称になり、それが広まったのは主に江戸時代である。そもそも田楽を煮込むことが始まったのは江戸時代後期だった。
もともと関西では、湯で温めた田楽に味噌を付けていたものが、そのまま湯の中にだしと一緒に煮込むように変化したらしい。それが関西地方にも広まっていいき、この関東から来た煮込み田楽を、従来の焼き田楽と区別するため、「関東煮(かんとうだき)」と呼ばれた。この関西の「関東煮」は次第に発達して一般の客座敷へも進出し、いわゆる現在の「おでん」に近い、「お座敷おでん」へと進化した。
いわゆる「関東煮」がおでんに取って代わるまでは、大阪ではおでんと言えば、茹でたこんにゃくに、すり味噌に砂糖を加えて甘くしたタレを塗ったものが主流で、おでんが現在の形になったのは、おおよそ、文化文政の頃と思われる。
江戸のほうが早くから現在の形になっていたため、東京ではこの「おでん(煮込み田楽)」は発生以来、庶民を対象として、屋台・茶飯屋の料理として材料も調理法も固定したままほとんど改良もみられなかったが、関東大震災後の、関西の料理人の東京進出をきっかけに、関西形態のおでん屋さんが東京にも進出する。
因みに有名店の「お多幸」も大正13年創業なのも納得できる。
こうして現在もある老舗のおでん屋さんが登場し、一般化していていったようだ。
TOP
■洋食なのに偉大なる日本食!(トンカツ)
「とんかつ」といえば、すっかり日本食として定着しいる料理と誰もがイメージしているはず。
都心のとんかつ専門店等は、ランチタイムとなればサラリーマンで満席になる、まさに偉大なる日本食として活躍中の「とんかつ」。
しかし、明治時代にはコロッケ、カレーライスと並んで、「とんかつ」は当時最先端の洋食であった。
1872年(明治5年)に発行された『西洋料理通』に「ホールコットレット」という料理が載っていて、これがルーツとされている。
最初は牛肉が多かったといわれるが、ポークカツレツも1907年(明治40年)頃から当時の西洋料理レストランで提供されている。
簡単な歴史を紹介すると、1895年(明治28年)銀座「煉瓦亭」の木田元次郎氏のたっぷりの油で揚げるトンカツが煉瓦亭のメニューになり、史上最高のコンビネーションといわれる刻みキャベツを初めて加えたのもこの時とされる。そして1918年(大正7年)浅草、屋台洋食の河野金太郎氏がカツカレーを作ったとされ、当時「河金丼(かわきんどん)」と名づけられ大人気になったようだ。
そして、現在の「とんかつ」という料理の形が確立されたのは、昭和の初め頃、東京上野「ポンチ亭」島田信二郎氏(もと宮内庁大膳部洋食)といわれ、肉の厚さ2.5〜3センチ、たっぷりの刻みキャベツ、包丁で切ってハシで食べられるよう工夫された、ほぼ現在の「とんかつ」が誕生したのだ。
TOP
■江戸料理とは…

徳川家康が江戸に幕府を開いて以来400年、江戸(東京)は日本の中心都市となった。
ところが、江戸料理の実態は、一般にあまりよく知られていない。現在の東京には「江戸料理」を売りにしている店はほとんどないのが現状。会席料理を中心とした高級な料理屋は、どこも関西風料理が中心なのだ。
こうなった理由は、関東大震災で東京の多くの料理屋や料理人がダメージを受けたため、名店として知られる日本料理店「なだ万」等のように、関西の料理店が東京に進出してきたからだと言われている。
そこで、手間隙かけた細工的な 江戸料理がだんだんと姿を消し、代わりに、シンプルで素材の味を生かした関西料理が広まったからだ。関西料理は時代の好みにも合っていたため、関東の地にも根付き、江戸料理と融合して発達したといえる。今や幻となりつつある本来の江戸料理とはどんなものなのか?江戸料理というのは非常に手の込んだもので、例えば魚の身をすり身にした後でいろいろ手を加えて調理をする。

江戸料理で最も有名な店はなんといっても「八百善」。八百善は文化文政の頃(19世紀初め頃)に江戸で繁盛した料理屋です。料理屋を開業する以前の八百善は、明暦の大火(1657)後に、新鳥越2丁目(山谷)で八百屋を始め、創業者、八百屋の善四郎の名から八百善とよばれた。その後文化年間(1804ー18)に仕出し料理屋を始め、文政(1818ー30)の初め頃から座敷で客をとる料理屋に発展したようだ。
当時一流の文人墨客と交流があり、その著書『料理通』には、蜀山人、亀田鵬斎が序文、谷文晁、葛飾北斎、酒井垉一などが挿画を寄せている。八百善はペリーへの饗応料理も担当したことでも名を残している。八百善に関する逸話としては、「客が二、三人で極上の茶と、うまい香物のお茶漬けを注文したら、お茶漬けは結構な味ではあったが、その勘定書はなんと1両2分であった」とか(現在の貨幣価値だと約15万円)八百善は材料を吟味し、大変な手間暇をかけていた。
例えばハリハリ漬の場合、細根大根1把の中から2、3本しか使わず、辛みを出さないために水でなく、味醂で洗って漬けたので美味であったといわれる。
まさに「超こだわりの高級店」だったのだ。
現在は新宿高島屋、両国の江戸東京博物館内のレストランで名店「八百善」の味と雰囲気を堪能できる。

TOP
■関西地方の寿司として有名な「バッテラ」、どうして鯖寿司のことをバッテラと言うのでしょうか…

 バッテラはポルトガル語に由来する言葉です。鯖寿司は、しめさばをすし飯にのせ、棒状にしてから竹の皮に包みますが、その形は小舟に似ています。ポルトガル語では小舟を意味する語は「Bateira バッテイラ」で、ここから鯖寿司がバッテラと呼ばれるようになったと考えられます。
 もともとは※コノシロの押し寿司をバッテラと呼んでいたのですが、しだいにコノシロが不漁になり次第に鯖寿司にとって代わられたようです。確かにコノシロの押し寿司の方が小舟に見えますね。

因みに…
 ご存知のように、カステラもポルトガル語に由来します。
 日本の和菓子だと思われがちですがその意味は「(スペインの)カスティーリャ地方のパン」。
 安土桃山時代に日本に伝来し、当時はカステイラと呼ばれ、漢字でも加須底羅などと書かれていました。
 その他にも伝統的な純日本料理と認識されている料理の中にも西洋から伝わったとされるものは数多くあるようです。

※コノシロはニシン目ニシン科コノシロ亜科の魚で、分類学的にはニシンやイワシの仲間です。姿形のよく似た魚にサッパがありますが、サッパにはコノシロに見られる、えらぶたの後ろにある黒斑がないことで区別できます。この魚は成長にあわせて呼び方が変わるいわゆる出世魚で、体長4〜5センチ程度のものを「シンコ」(関東)、中型のものを「コハダ」(関東)、「ツナシ」(関西・九州)、体長15センチ以上のものを「コノシロ」と呼んでいるようです。

TOP
■もりそばとざるそばの違いは… 

「もりそばとざるそばの違いは?」と自称「そば通に」尋ねると、「海苔が乗っているかいないかだよ!」との解説。
 それで100円も200円も違うのか?…。
 そばといえば安土桃山時代、大阪城の築城当時の工事用の砂置き場(砂場)付近で流行した当時のファーストフードであったようだ。やがて大阪の築城が終わり、大工や左官職人などが江戸に移り、彼らと伴に江戸に「そばや」が移ったとも言われ、実は大阪がルーツという説が多い。その証拠に現在東京に「砂場」と名のつく老舗が存在する。
 元々そばと云えば「もりそば」のことだった、江戸時代、元禄の頃からつゆを予めそばの上にかけてから食べる「ぶっかけそば」が流行り、それと区別する為に従来のそばを「もりそば」と呼ぶようになった。
 明治以降江戸(東京)が日本の政治経済の完全な中心となり、鉄道などの交通機関の発達に伴い関西や日本中から人が集まり、江戸の“甘ジョッパイ”「もりそば」が改良され、特に出汁に「みりん」と「かつお出汁」をより利かせた柔らかい味の「ざるそば」が誕生したと言われる。海苔は店員が間違えない為に乗せている場合が多い。

◎もりそばとざるそばの主な違い
 (1)使っているそば粉が違う  (2)薬味の量が違う
 (3)出汁が違う        (4)海苔のありなし

★勿論、全ての「そばや」に共通しているものでは有りません。(あくまでも傾向です)

●知ってますか・・・・
 そばが栄養学にも健康にもすぐれた食品であるのは周知のとおり。
 そばを茹でたゆで汁(そば湯)がとても栄養に富んでいることは、あまり知られていないようだ。老舗の蕎麦屋では必ず付いてくるが、そばに含まれる、ビタミン類や、ルチンは水溶性のため、茹でている間にどんどん茹で湯の中に溶け出してしまう。
 また、そばの旨み成分でもあるたんぱく質も半分は水溶性のためこれも溶け出してしまうのである。
 そばを食べた後のそばつゆをそば湯でのばし、そばを余すことなく味わうべきなのだ。
 自称「そば通」という方は絶対知っておくべき知識ですよ!

TOP
■酒の肴の「肴」とは…

 古くから「肴」語源は、主に酒菜を意味する。酒魚または酒楽という場合もある。
 要するに酒に供える食べ物の総称であったが、その中で酒を美味しく飲むのに相性がよかったのが動物性の食材とされてきた。
 魚や鳥獣類の料理を真菜(まな)、植物性の酒菜を蔬菜(そさい)粗略な食品とよび、真菜を料理したり、神前に供えるために用いた板を真菜板と呼ぶようになったのもこのことからだ。
 料理した食品は肉の上に烹るという意味のメ、ナをつけてサカナと訓む肴の字が生まれたのだ。
 ところが、平安時代には宴席の接待様式も変化し、酒の席を賑やかにするため歌舞音曲や武芸までも座興として披露する風習が生まれた。この座興をもまたサカナと呼ばれ、食品の肴と区別して肴舞(さかなまい)と呼ぶのが正確な言葉といわれている。

TOP
■ヘップバンとモンローどちらがお好き?

 ワインのボトルは主に「ボルドー型」と「ブルゴーニュ型」に大別されること知られているが、フランスではワインの好みを訪ねるとき「ヘップバンが好きかモンローが好きか」という人がいる。
 ヘップバンはボルドー、モンローはブルゴーニュのことを指す。ボルドーの瓶は怒り肩で、やせたヘップバンに似ている。
 ブルゴーニュは、なで肩で妖艶なモンローにそっくりということらしい、いかにもワインの本場、フランスらしいウィットな会話といえる。

TOP